人はあまりに信じられないことに出くわすと頭が真っ白になる。
 ドラマとか小説とかでよくある表現だけど、それは全くもってその通りだった。

「………………」

 口元が不自然に引きつる。冷や汗が背中をダラダラと流れるような感覚。
 ――轢いた。人を轢いた。
 いや、この場合は人をはねたと言うんだろうか? いやいや、そんなことはこの際どうでもいい。
 要は自転車と人で衝突事故を起こした。そういうことだ。
 事故までの経緯を整理すると。
 その夜、私は近くのコンビニまで牛乳を買いに行った。朝に一杯の牛乳を飲まないと落ち着かない。実家にいた頃の習慣はなかなか抜けないものだよね。本当はスーパーが安くていいんだけど、流石に遠くて行く気力が……。
 だからそんなことはいいんだって! ともかく、私はコンビニからの帰りだった。
 街灯もなくて真っ暗で、自転車の壊れかけたライトがギリギリと唸りながら発電していた。
 壊れかけだから時折ライトがふっと消える。よくあることだから気にはしていなかった。
 直さなくちゃなんて思いながら、これまた街灯のない十字路に差し掛かり。
 ドン! ズシャッ!
 …………右側から出てきた何かを、はねた。
 タイミングが良かった。私が通り掛かる瞬間と同時にそれは飛び出してきたんだ。
 ブレーキなんて掛ける暇もない。下り坂から降りてきてなかなかなスピードがついた状態で、はねた。
 結構大きな衝撃だった。でも私は倒れたりもせず、少しふらついただけで済んだ。運がいい。いい、のか?
 慌ててブレーキを掛ける。ライトの野郎がそんな時に限って一時復活、嫌な場面を照らし出す。
 前方に真っ黒な服を着た人が倒れていた。他にぶつかったような物はなにもない。

「――――――」

 言葉も出ない。頭が真っ白だった。
 救急車を呼ばなくちゃ。いやでも私がはねちゃったんだよ? でも逃げたら轢き逃げになるのかな?
 ……大分頭も混乱している。早く救急車を呼べ、私。

「きゅ、救急車!!」

 やっと戻ってきた冷静さに従い、携帯を取り出した。でも。

「…………あの」
「ぎゃあ!」

 すぐ近くで男の声がした。本気で心臓が止まった。

「いやワザとじゃない! ワザとじゃないんです!! 確かに左右確認も忘れたしライトも壊れていたとはいえこれは不慮の事故でして!」

 ピヨっているとワンブレスで長台詞も楽々言えてしまう。新発見。

「だから私が悪いとしてもまずは救急車を呼ばないと私は轢き逃げ犯になってしまうわけですよ! だからまずは電話をかけさせてください!!」
「落ち着いてください」

 これが落ち着いていられるか! ひ、人を轢いたんだぞ!!

「救急車を呼ぶ必要はありません。だから落ち着いて」
「なんで! だって人を轢いて……あれ?」

 この人、誰?
 苦笑いしている男の人だ。そして額からは血が……。

「死ぬような怪我はしてませんよ。だから、落ち着いてください」

 ……結論。私はこの人を轢いた。いや、はねた。

「!!」

 頭からだらだらと血が流れている。頭の怪我は危ないとテレビで言っていた。

「あのやっぱり救急車を!」
「だから大丈夫です。それより、貴方に怪我はありませんか?」

 紳士的な笑顔。オプションで額から血がだらだら。
 どう見たってアンタが大丈夫じゃない。

「血! 血が!!」
「血? ああ、大したことありませんよ」

 大したことあるよ!

「救急車……救急車!」
「だから大丈夫ですって。それより、静かにしてください」
「でも、でもっ!」

 その血を見て大丈夫と言われても説得力皆無ですから!
 どうやらこの男は救急車が嫌いなようだ。嫌い、なのか?

「と、ともかく手当てしないと!」
「大丈夫ですよ。自分でなんとか……」
「いえ! 私が轢いたのです!! 私が手当てしないと!」
「なんですかその使命感は……」
「何でもいいんです! ウチまで来てください!!」

 幸い、私の住むアパートはこの十字路から徒歩一分だ。近い近い。

「こっちです!」

 自転車から降りて男の人の腕をがっしり掴んだ。

「徒歩一分です! だから手当てさせてください!!」

 人はとんでもない出来事に出くわすととんでもない行動に出る。ドラマや小説の表現は馬鹿に出来ないと思った。


 

 

 私はアパートで一人暮らしをしていた。大学二年生、そろそろ就活の準備をしなければなるまい、という時期だ。
 夏休みだからといって帰省する気にもなれず、ぐうたらな生活をしていた。
 ……それを今、本気で後悔している。

「ちょっと待っててください!」

 部屋の中はなかなかな散乱具合だった。自分の部屋なんだからそれでいいのだけど、来客がいるのにこれはマズイ。
 下着とか脱ぎ捨ててあった服を押入れに放り込む。雑誌を簡単にまとめて部屋の隅へ。
 私がはねてしまった男の人は苦笑したまま玄関に立っている。

「あの、大したことないで本当に大丈夫……」

 どう見ても大量出血で何を言うか。

「……上がってください」
「…………はい」

 有無言わせないにっこり笑顔で促す。男の人も渋々部屋に上がった。
 救急箱を出して包帯を出しながら、ちらりと男の人を観察する。
 真っ黒なスーツを着た、なかなかの男前だ。どちらかというと優男風。
 ずっと笑顔を浮かべているからか、なんとも胡散臭い。

「頭の怪我、見せてください」
「本当に大丈夫なんですけどね……」

 言いながらも男の人は前髪を手でおさえた。
 みれば髪の毛の生え際近くに切り傷。そうは深くないみたいだけど、結構広範囲。
 髪についた血を落としたほうがいいかもしれない。

「ちょっと待っててください」

 濡れタオルで拭いたくらいで落ちるかは疑問だけど、何もしないよりはマシだ。
 洗面所でタオルを濡らしていると、市で設置された防災無線の受信機が鳴り出した。
 耳を澄ませば外の屋外スピーカーも鳴っている。

「どうかしたんですかね?」

 タオルを手に戻り男の人に話しかけるも、彼は返事をしなかった。
 髪についた血を丁寧に落としながら、無線の声に耳を傾ける。

『西警察署から連絡します。現在西地区に殺人犯が逃走中です』

 殺人犯? なんとも物騒な話だ。

『犯人は痩せ型の男。黒いスーツを着ています』

 …………まさか、ね。そんなドラマとか小説みたいな話、ないよね。

『ナイフを所持しており、頭を負傷しています』

 ………………まさか、ねぇ。
 ちゃり、と金属音がした。びくっと動きを止める。

『住民の方は外出せず、戸締りをしっかりとして警戒ください。繰り返します――』
「………………」

 口元が引きつる。ぎこちない笑みが勝手に形作られる。そんな中、男の人と目が合った。

「騒がないでくださいね」

 にっこり。男の人は私のお腹にナイフを押し付けながら笑った。

『戸締りをしっかりとして、十分に警戒を――』

 ……既に家の中にいる場合、どうやって戸締りして警戒すればいいのでしょうか。
 切実に教えてほしかった。

「だから言ったでしょう? 大丈夫だと」

 男の人はやれやれと言った感じで肩を竦める。
 私はといえば、タオルで髪を拭いていたままの格好で固まっている。

「聞いていますか、御坂燐さん?」
「!!」

 なんで私の名前を? まさか最初からターゲットは私で……!

「……そこのダイレクトメールに書いてありましたよ」
「はは、ははは……」

 あっさりと言われて、私は笑うしかない。

「さて、どうしましょうか? 顔を見られてしまいましたしね」

 にこにこと笑う顔に邪気はない。邪気はないが、威圧感がある。

「…………あのぅ」
「なんですか?」

 にこにこ笑顔につられてにこっと笑う。……引きつっているだろうけど。

「まずは手当てだけ、しちゃっていいですか?」

 この格好のまま固まっているのは辛い。それに膝立ちしてるから膝も痛くなってきた。

「……どうぞ」

 呆れた顔をしながらも許可をくれた。

「ありがとう、ございます」

 お礼を言ってから言う必要はないことに気付く。脅されてるのに、どうしてお礼なんて言う必要があるのか……。

「変な人ですね」

 全くその通りだと自分でも思った。







 とりあえず髪についた血を落として消毒した。ガーゼを当てて包帯を巻く。
 ……お腹に当たるナイフが痛くはないけど、気になる。
 ちなみに私に医術の心得はない。不恰好な巻き方になったけど、人に見せるものでもないので気にしないことにした。
 ナイフで脅されたまま、男の人の正面に正座する。

「……はぁ」

 思わず溜息が漏れる。

「溜息はこっちがつきたいです」

 男の人が言った。
 思えばこの人は最初から手当てを拒んだ。それを引っ張り込んだのは私。
 溜息をつきたいのは男の人の方だろう。

「……随分と冷静ですね」

 男の人の顔から笑顔が消えて、呆れた表情で私を見ている。

「怖くないんですか? 私は殺人犯ですよ」

 怖いか怖くないかで言えば怖い。でもそれはこの人じゃなくて、突きつけられた凶器が怖いのだ。

「……貴方は怖くない、かな」
「どうして?」
「だって殺すんだったら最初から殺してるはずだから」

 よくよく考えれば、最初から私を殺していればこんな事態にならなかった。
 確かにこの人を轢いたけど大した怪我もなかったようだし、だったら最初から殺していれば面倒なことにならなかったはず。
 なのにこの人は私の心配をしたりするからこんなことになった。つまり、この人は根っからの悪人じゃない。
 …………確かに、私は不自然なくらい冷静だ。人はあまりに非現実なことに巻き込まれると驚くと逆に冷静になるのか。またしても新発見。
 男の人は目を丸くして私を見ていた。そしてまた笑う。

「貴方はおかしな人だ」
「私もそう思う」

 自分でもおかしいと思うよ。

「では、ここで簡単なクイズを出しましょう」

 うわ、すごく嫌な予感。

「私はお察しの通り、警察に追われている殺人犯です」
「そうですね……」
「だから通報されるとすごく困るんです」
「そうですよね……」
「そうなんです、困るんです。さて、問題です」
「回答拒否は?」
「認めません」

 だよねぇ。

「私は追われている身、貴方には顔を見られている。ならば、私はどうするべきでしょう?」

 友好的な笑顔だ。とても友好的で……逆に胡散臭い。

「一、貴方を殺す」

 一番簡単な選択肢だ。……そして私にとって一番最悪な選択。

「二、貴方を人質にして逃げる」

 まあ、分からなくもない選択肢だけど。

「……でも、いつまでもは面倒なので適当なところで殺します」

 だよねぇ……。

「三、貴方を口止めしてここから立ち去る」

 願ってもない展開だ。でも。

「ただし口約束も信用できませんから、ある程度、死なないくらいには痛めつけます」

 痛いのは嫌いなんで勘弁してほしい。

「そして、最後の選択肢」

 まだ選択肢があるらしい。私の頭では三つしか思い浮かばなかった。

「四つ目、ここに匿ってもらう」
「………………はい?」

 私の耳はこの異常事態にやられて、ついに壊れてしまったのだろうか?

「私を匿ってください、御坂さん」

 ……壊れていなかったらしい。

「匿うって……」
「お気に召しませんか?なら言い方を変えましょう。私を飼ってくださいませんか?」

 この人の頭はかなりイカれているようだ。

「……真面目な話、今ここから逃げるのは危険なんですよ」

 男の人は冗談めかした笑みを消して、普通の笑顔を浮かべた。
 …………その気もないのに笑う、作り物の笑顔。

「さっきの放送からして、私がこの街にいるのは周知の事実です。そんな中では簡単に見つかり、捕まってしまいます」
「そう、でしょうね」
「それに私は快楽犯ではない。無益な殺生は嫌いです」

 殺人犯が無益なって…………無益?

「貴方、殺し屋? お金をもらって人を殺す……」
「おや、貴方は本当に冷静で聡い方ですね」

 つまりドンピシャか。

「それで、問題の答えは? どれを選びますか?」

 ……私に選択肢はあるのだろうか。いやない。

「よ、四番で」
「貴方ならそう言ってくれると思いました」

 にっこり。

「…………ははは」
「…………ふふふ」

 人はどうしようもなくなると笑うしかなくなる。
 ……出来れば、知りたくなかった。
 殺し屋はリウと名乗った。それ以上でもそれ以下でもない、リウと。

「それって、偽名だよね?」
「いえ、本名ですよ」

 にっこり。
 …………絶対に偽名だ。

 




 


 彼を匿い始めて、彼に言わせれば私に飼われ始めて一週間。
 私は人間の高い順応性を思い知ることとなった。

「ただいま」
「おかえりなさい」

 バイトから帰ってくるといつもと同じようにリウが出迎えてくれた。
 テーブルに並べられた料理と片付けられた部屋。
 リウは言葉通り、私に飼われているつもりらしい。だから飼ってくれる代わりに家事をやってくれるのだ。
 洗濯だけは自分でやっているけど、このままこの生活が続けばその内……ううん、今は考えないでおこう。

「今日は余り物で作ったあり合わせですけど、味は悪くないと思いますよ」
「リウが来てから冷蔵庫が綺麗に片付いてて気持ち悪いわ……」

 そしてこの生活に慣れてきた自分も。
 私はどうして、警察に行かなかったんだろう? 本当に怖いなら、次の日に警察に行けば済むことだったのに。
 どうしてだろう? 何度考えても答えは出ない。ただ、この生活に慣れてきた自分は確かにここにいる。

「気持ち悪いとは何ですか。食べられなくして捨てるのは勿体ないことです」

 ……殺し屋に勿体ないと説教されるとは。

「御坂さんがだらしないだけですよ」

 当たっているだけに反論はしない。でも殺し屋さんには言われたくない。
 この殺し屋さんはいっつも終始笑顔で、結構な皮肉屋だ。いつだって胡散臭い笑顔だし、本当に心から笑えるのか疑問だ。

「今日のお仕事はどうだったんですか?」

 キッチンでお味噌汁を温めながらリウが聞いてくる。
 我が家の狭いキッチンで味噌汁を温めるいい男……まさに夢のように似合っていない。

「いつも通りよ。なんの問題もなく、平和だった」

 ある意味平和じゃないのは、リウといる今この時だ。

「お茶飲みたい。リウも飲む? 緑茶でいい?」
「ええ。ありがとうございます」

 茶葉を急須に投入しながらちらちらとリウを観察してみる。
 ……やはりリウはいい男だ。優男風に見えるのは笑顔が張り付いているからで。
 思えばリウの笑顔じゃない表情はあまり見たことがない。
 呆れた表情とか、私の馬鹿さ加減に疲れた表情とか、そんな表情だけ。本当の本当に真剣な顔や、心からの笑顔は見たことがない。

「……私の顔に何かついてます?」

 私に背中を向けたまま問われる。見ていることに気付いていたらしい。

「…………目と鼻と口とその他諸々」
「貴方の頭は小学生並ですね」

 一週間そこらで見せてもらえるものでもないか。相手は殺し屋さんなんだし。
 それにそんな顔を見せてもらえるだけ仲良くなっても困る。

「お味噌汁温まりましたよ」
「ありがとう。じゃ、食べようか」

 ……フツーに一緒にご飯食べるくらい仲良くなっただけでも問題なんだから。

 

 


 更に二週間が過ぎた。

「御坂さん、行儀が悪いですよ」
「だって暑いんだもんー」

 ごろごろとTシャツにジャージで床に転がる。リウはやれやれといった様子で台所に向かった。
 正直、もうこの生活に慣れてしまった。最近では洗濯もリウに任せてしまう時がある。
 どうしてか、すぐに出て行くと思われた見目麗しい殺し屋さんは未だ出て行こうとしない。
 そろそろここら辺の警戒も薄れた。もう出て行っても大丈夫だと思うんだけどな……。

「もう少ししゃっきりしてください」
「ぎゃ!」

 カップのカキ氷を持ってきてくれたのは嬉しい。だけど!

「背中に置かないでよ! つめたい!!」
「だったら転がってないで下さい」

 シャツのめくれていた部分、肌に直接置かれたアイスは凶器に近い。
 冷たく返したリウは自分の分のカキ氷を持って座布団に座った。

「あ、ずるい」
「だったら転がってないで下さい」

 冷たい返ししか出来ないのか、コイツは。
 背中のカキ氷をどけて起き上がる。扇風機の風が頬に当たった。

「全く……貴方は女という自覚がないんですか」

 座布団を渡してくれながらリウが溜息をついた。

「仮にも歳若い男の前で寝転がって、あまつ背中まで見せて」
「歳若いって自分で言ってちゃおしまいでしょう」

 この男は本当に分からない。見た目は若い。外見は二十代後半くらいなのに、発言はどうにも親父臭い。

「ねぇ、貴方っていくつなの?」
「どれくらいに見えます?」
「うーん、三十代前半?」

 見た目年齢と発言年齢を足して二で割ればそれくらいだ。

「三十代ですか……」
「あれ、はずれ?」

 実は十代でした、とかいうオチは期待していない。想像したくもない。

「まあ、当たらずとも遠からず、です」
「正解は?」
「…………三十です」

 にっこり。
 ……そろそろ付き合いも長くなってきたから分かる。このにっこり笑い、イコール嘘。

「……そう」

 そして聞いてもちゃんとした答えが返ってこないことも理解している。
 ざくざくとカキ氷を崩しながら窓の外を見る。夏の眩しい太陽がそこにあった。
 でも私は知っている。そろそろ、夏も終わりに近くなってきたんだって……。

 

 

 

 実家から野菜とか果物とかが送られてきた。実家は農家ではないけど、そこそこ広い庭で家庭菜園をしている。
 ダンボールいっぱいに詰められた色とりどりの野菜たち。今まではその大量さから友達に配っても腐らせることもザラじゃなかったけど。

「本当に大量ですね」

 今は彼がいるのだ。勿体ない星の王子様が。

「これだけ大量だと当分野菜に困りませんね」

 リウは料理が好きらしい。そしてとても美味しい。彼の作るものは本当に美味しいのだから、女としてかなり悔しい。
 野菜はリウに任せて、私は一緒に入っていた手紙を読む。
 元気か、こっちは元気だ。
 健康には気をつけろ。
 たまには顔を見せに帰っておいで。
 書いてあることはいつもと変わりない。でも。

「………………」

 手紙の最後、いい人が出来たらまず母さんに報告しなさいとある。
 いい人、つまり恋人はいない。だが男と同居はしている。

『今私ね、自転車ではねちゃった殺し屋さんと一緒に住んでるの!』

 …………どう聞いても正気の沙汰じゃない。

「御坂さん」
「何?」
「この野菜、ご友人に配るんですか?」
「あー、うん。バイト先の人に配るから適当に分けておいてくれる?」
「分かりました」

 ……殺し屋をあごでつかうなんて、私も普通から随分逸脱してしまった。
 そもそもリウが敬語キャラなのがいけない。だから私が偉そうに見えてしまう。

「御坂さん、何か食べますか? クール便だったので冷えてますし」
「そうだね……何か食べようか。適当に何か切っていいよ」
「分かりました」

 その間にテーブルを片付ける。手紙は封筒に戻して棚の引き出しにしまった。
 少しして、リウは食べやすい大きさに切ったスイカを持ってきた。

「あ、今年も入ってたんだ」
「毎年送ってこられるんですか?」
「うん、ウチの家庭菜園で作ってるから。当たり外れも大きいんだけど」

 まずは一口。

「…………今年は当たり年」

 瑞々しいし、甘い。市販されている物と比べても大差ない。
 喉が渇いていたこともあって、ぱくぱくと口に運ぶ。だけど、何故かリウは手をつけようとしなかった。

「リウも食べたら? 美味しいよ」
「……御坂さん」

 急に改まった顔で名前を呼ばれる。

「……何?」

 ついに出て行くんだろうか? 私は通報しないだろうと、見切りをつけて。

「実は、お願いがあって」

 もう出て行きますから、通報はしないでください。
 そんな言葉が思い浮かんだ。
 やっとこの人から解放される。自由になれる。それは喜ばしいことだ。
 なのに、どうしてこんなに胸が痛くなるの?

「実は……」
「実は?」
「実は私、西瓜が大好きなんです」
「……………………はい?」

 やはり私のお耳はおかしくなってしまったのでしょうか?

「だから、私は西瓜が大好きでして。半分に割ってまるごと食べるのが夢だったんです」

 リウはにこにこと笑っている。だけど目にからかっている色はない。つまり、本気だ。

「ど、どうぞ。好きにしていいよ……」
「ありがとうございます、御坂さん」

 本気で嬉しそうだ……。どうやらこの家から出て行くといった内容ではなかったらしい。

「……………………」

 嬉しそうにスイカ半分を食べるリウを見て、私はほっとしていた。
 どうしてこんなに安堵しているのか、理由は分からなかったけど。

 

 


 夏休みも終わり、大学が始まる。そうなれば、レポートやら課題やらで忙しくなる。
 大学は自転車で三十分ほどのところにあるから、どうしても大学図書館にこもってしまう。
 ここ最近はバイトもあって帰りが遅かった。その日はたまたま、早めに帰ってきたんだ。

「ただいま! ってアレ?」

 いつも出迎えてくれる笑顔がなかった。
 初秋といえ、暗くなるのは早い。電気がついていないからおかしいとは思ったんだけど。

「リウ?」

 部屋にも台所にもいなかった。お風呂場にも、トイレにも。
 何処にもいない。出かけていったのか、それとも出て行ったのか。

「リウ……リウ…………?」

 不安になる。あの殺し屋は出て行ってしまったのかと。

「挨拶もなしに、失礼じゃない……」

 リウはいつだって家にいて、私を出迎えてくれた。
 出掛ける時も私がいるで、きちんと声を掛けてからひっそりと愛用のナイフを置いていった。
 帰ってくる。
 それが彼なりのサインだった。帰ってくるから心配するなと。
 ……もしかしたら私がいない時にもこうやって、密かに出掛けていたのかもしれない。
 それでも、私は不安だった。嫌な予感がする。
 私は電気もつけずに膝を抱えてリウの帰りを待った。息を潜めて、真っ暗な部屋で彼を待ち続けた。
 その内に雨音が聞こえ始めて、もしかしたら濡れて帰ってくるかもとお風呂をつけた。
 お風呂をつけたらまた電気もつけずに真っ暗な部屋で過ごした。
 それから結構経った頃に玄関の開く音がした。中に入ってくる足音がして、静かに電気が灯る。

「…………御坂さん」

 靴をしまわなかったから、彼も私の帰宅に気付いたはずだ。
 振り向けばまたあの黒いスーツ姿で表情も無表情。そして、微かにマッチを燃やしたみたいな臭いがした。
 言いたいことは沢山あった。聞きたいことも、沢山。でも。

「おかえり」

 口から出たのは、そんな陳腐で、でもとても大切な言葉だった。

 

 


 リウはずぶ濡れではなかったものの、雨のせいで随分と冷えていた。
 お風呂場に無理矢理押し込め、私はホットココアを作ることにした。
 彼は案外甘党だから、砂糖は大目に。あんまり熱いのは得意じゃないから少しぬるめに。
 ……いつの間にか、彼の好みを把握してしまった。
 そんな自分を苦く思いながら、私は鍋の中の牛乳をかき混ぜる。

「………………」

 いつから、私はリウを気にするようになっていたのか。
 彼は私を脅してここに居座った殺人犯だ。最初は警戒していたはずなのに、いつからかこんなにも心を許してしまった。
 ……私は現実に生きている人間だ。人殺しにほだされる、なんて展開は望んでいない。
 望んでいない、はずだったのに。

「違う、私は……」

 否定しなければいけない。こんな感情、勘違いでしかないと。

「違う、違う……」
「御坂さん」
「!!」

 耳元で声がした。心臓が飛び上がる。

「牛乳、吹き零れてますよ」
「へ! え!?」

 どうやら考えている内に手はお留守になっていたようだ。
 リウが私の後ろからコンロに手を伸ばし、火を止める。ふわりと石鹸の匂いがした。

「全く、何やってるんですか」

 いつも通りの彼だった。いつもと同じ呆れた顔で私を見下ろしている。
 それが酷く、私を安心させた。

「私が家事をやってしまうのがいけないのですかね……このままでは貴方がお嫁にいけなくなってしまう」
「ちょ、そこまでは酷くない! 今は考え事してたからそれで!!」

 思わず叫んで、はっとした。このタイミングで考え事と言ったら彼のこと以外有り得ない。そのことを、この聡い男が気付かないわけがない。
 気付かないわけないはずなのに。

「例え考え事をしていても、手を留守にさせては危ないですよ」

 わざと、話を逸らされた。普段の彼なら嫌味のネタにするはずなのに。

「……そう、だね」
「甘やかしすぎましたか。今度から洗濯くらいはご自分でなさるといい。最初は貴方がやっていたのに、今は家事の全てを私に放り出して……」

 ぐちぐちと嫌味を言われて、私は子供のような反発心で言い返す。
 いつも通りの会話。いつも通りのやり取り。でもこれは全て演技、私もリウも、見せかけているだけ。

「ほら、貴方は部屋に戻ってください。これ以上鍋洗いの重労働を増やさせないでください」
「な! 折角ココアでも淹れてあげようと思ったのに!!」
「それはとても光栄です。ありがとう。お気持ちだけで十分です」
「む、むっかー! アンタってホント最低!」
「どうとでも言いなさい。私にダメージはありませんから」

 分かっている。これが見せかけだと。くだらない芝居だと。それでも、私達はこの茶番劇を演じ続ける。
 彼をここに縛り付けておくために。

 

 


 夏が完全に終わり、秋も中頃を過ぎた。時の流れとはこうも早いものかとしみじみ思う。
 私に飼われているらしい殺し屋さんはまだウチにいる。私と一緒に暮らしてくれている。でもお仕事はきちんとこなしているようだった。
 時々、早めに帰るとリウがいないことがある。待っていれば彼は帰ってきてくれるけど、マッチの燃えたような臭い、硝煙臭や血の臭いをさせていることが多い。
 それにいつも通り出迎えてくれても、シャワーを使った形跡が残っていることもあった。
 気付いていた。でも気付いていないフリをしてやり過ごした。

「ただいま」
「おかえりなさい」

 出迎えの胡散臭いにこにこ笑顔も慣れた。むしろ帰ってこの笑顔がないと安心できない。
 …………私も大分重症になってきた。

「今日は早かったんですね」
「うん、レポートが思ったより早く終わって」

 それはよいことです、とリウは笑う。この人の笑い方も随分柔らかくなった。

「そういえば、今日はこの秋最高の冷え込みらしいよ」
「ああ、だからこんなに冷えるんですね」

 数日前に引っ張り出したファンヒーターがごうごうと温かい風を送ってくる。かじかんだ手を温めながら、私は窓の外を見る。
 真っ暗だから空の様子は見えないけど、夕方の具合からいってどんよりと曇っているのだろう。

「今日はシチューにして正解でしたね」

 キッチンでリウが言う。そうだね、と返してキッチンを覗き込んだ。
 背の高い、見目のよい美男子がウチのキッチンに立っている。違和感のあった光景も、もう見慣れたものだ。

「ホワイト?」
「ええ。ビーフがよかったですか?」
「ううん、ホワイトシチューが好きだから」
「私もどちらかといえばホワイトですね」

 他愛ない会話。心地よい温度で交わされる世間話。

「……もう、冬ですね」
「…………そうだね」

 秋ももうすぐ終わる。そうしたら冬が来て、きっとリウはいなくなる。
 予感がしていた。予感というよりも、確信に近い。
 彼は長くここにいた。長く居過ぎた。だから、そろそろ彼はここから出て行く。
 仕方のないことだし、当たり前のことだ。そもそも殺し屋を匿っている方がおかしい。
 異常状態から平常に戻るだけ。ほんのちょっと長く続いた夢が、覚めるだけ。
それだけなのに。

「……ねぇ、リウ」
「なんですか?」
「…………お腹すいた」
「はいはい。急いでお作りますよ、ご主人様」

 私は彼に何を言おうとしたんだろう? 何か言おうとして、寸前で踏みとどまった。
 ただ分かるのは、本当にとんでもないことを言おうとしていたことだけだった。

 

 

 

 リウ特製ホワイトシチューは文句なしに美味しかった。やはり女としては釈然としないものの、そんなの今更だ。
 後片付けも終わらせて、部屋を占領していたテーブルをどかす。
 安くもないが高くもない家賃の1DKの部屋に、私のベッドがありテーブルがある。
 リウは最初の頃キッチンで寝ていた。でもそれはあんまりだったので慣れ始めた頃に部屋で寝るように勧めた。
 以来、彼はテーブルをどかして部屋の床で毛布に包まって寝ていた。

「リウ、毛布一枚じゃ寒くない?」

 最初は夏だったし、今までもそんな寒くなかったから気にならなかったけど、さすがに今日は寒い。

「大丈夫ですよ。野宿よりもマシですから」

 ……比べる対象が野宿ならなんでもマシだろうよ。

「そうじゃなくて、寒くないかって聞いてるの」
「うーん……大丈夫だと思いますよ」
「風邪を引かれたら困るんですけど」
「なら大丈夫です。鍛えてますから」

 だからそういう意味じゃない!!

「もう一度聞きますよ、居候さん。毛布一枚で寒くはありませんか?」

 とてもゆっくりと、笑顔全開で丁寧に問う。

「……大丈夫です。毛布一枚あれば大抵の寒さはしのげますから」

 だから答えになっていない。
 もう一度問おうとして、やめた。ちゃんとした答えは望めそうにない。
 明日毛布をもう一枚買ってこよう。問答無用作戦だ。
 とりあえず今日はどうするべきか……。

「…………リウ」
「なんですか?」

 毛布に包まろうとしていたリウを呼び寄せる。

「どうしました、あくたむしでもいましたか?」
「あくたむし?」
「最初の文字がゴ、最後の文字がリ、の黒い昆虫ですよ。古典で習いませんでした?」
「……普通、習わないと思うよ」

 初めて知った。

「ちなみにあくたというのはゴミや塵という意味です。直訳するとゴミ虫ですね。昔の人もなかなか分かっている」
「うん、いらない知識をありがとう。別にそういうことで呼んだんじゃないから」

ちなみに私はあの黒い虫は平気だ。飛ばなければ。

「電気消しちゃって」
「? 分かりました」

 素直に電気を消してベッドに近付いてきたリウ。無防備といえば無防備。

「で、なんですか? 貴方に誘惑されても食指は動かないんですが」

 ……前言撤回。無防備でなくて無関心。

「…………そうよね、私なんかに食指は動かないよね」

 にっこりと笑う。

「ええ、頼まれても無理ですね。普段の貴方を見ていますので」

 あっちもにっこりと返してきた。

「だったら、いいよね」
「何がですか?」
「一緒のベッドで眠っても、大丈夫だよね!」

 不意打ちでぐいっとリウの腕を引っ張った。
 不意を打つから不意打ち。さすがのリウもバランスを取り切れず……。

「へっへー、私の勝ち」

 ベッドの中に引きずり込むことに成功した。

「貴方ってヒトは……!」

 流石のリウも驚いたらしく、忌々しげに呟きつつ見上げてきた。鋭さの増した目だったけど、そんなに怒っていないのも分かっているから怖くない。
 初めて見る表情。私はにんまりと笑った。

「寒くないかって聞いてるのに明確な返事をくれなかった罰です」
「だから大丈夫だと言っているでしょう」
「それは答えになってない。分かってるでしょうに」

 もう少し素直に、寒くないですよという見え透いた嘘でも、きちんと答えてくれればこんな暴挙には及ばなかった。
 よって答えなかったリウが悪い。

「何度も言いますが、というか言い厭きましたが、私が歳若い男ということを忘れていませんか?」
「忘れてないわよ? 三十代だってまだ若いものね」

 わざとらしく三十台を強調して言ってやる。

「なら貴方も忘れてないわよね? 私には食指が動かないって言ったばかりだもの」
「それとこれとは話が……」
「違おうが違わまいが関係ない」

 ぴしゃりと言い切ってリウを見下ろす。いつも立場的にも身長的にも見下ろしてくる美形男を見下ろす……かなり爽快な気分だ。

「風邪を引かれたら困るのは私。更に言うなら、飼われている立場ならご主人様に従いなさい」

 偉そうに言ってやると、呆れた表情でリウは起き上がろうとした。その背中を押さえ付けて阻止する。

「はいはいはい、出てっちゃ駄目よー」
「……貴方は本当に女として自覚が無いんですね」
「あるわよ、一応。ペットの体調を心配する程度の母性は持ち合わせていてよ?」
「……それは母性と言いません」
「まぁまぁ」

 男友達にするように、気軽に肩を叩いた。それから奢らせる時に浮かべる可愛らしい、と書いて気持ち悪い笑顔で。

「ここで寝て。ね?」
「………………まさか、貴方が魔性の女とは知りませんでしたよ」
「よかったね、今分かって」
「……………………」

 リウは私を睨みながらもベッドから出ようとはしなかった。いや、隙あらば出ようとしてるけど、私がそれを許さない。
 恋人にするように腕に抱きつき、出て行くのを阻止。

「貴方はいつもそんな風に男をベッドに連れ込むんですか?」

 渋々とベッドに身を沈めたリウが心底つまらなそうに聞いてくる。

「私そんなに尻軽じゃないし、そんな風に思われたくないし。基本は受身女だから」
「これだけヒトをはめておいて?」
「貴方はコイビトじゃないでしょ。友達なら平気」

 まあ、ベッドに引っ張り込むなんてことはコイツ以外にやりたいとは思わないけど。

「友達、ね……」

 ちらりと見下ろされて、私は舌を出した。

「……貴方は本当に私を男として見ていないんですね」
「そうじゃなかったら一緒に暮らしてなんかいられない」
「それは確かにごもっとも」

 私に片腕を拘束されたまま、器用に布団を掛けてくれる。

「……貴方も、顔に似合って器用ね」
「貴方ほど経験も計算もない。安心してください、貴方に食指は動かない」

 ちらっと見上げれば、呆れたような、でも優しい目で私を見ていた。
 ……なんで、こんな優しい目をする人が人を殺したりするんだろう?
 浮かんだ疑問を無理矢理打ち消して、私は目を閉じてリウの腕を抱き締める。

「おやすみ、リウ」
「お休みなさい、御坂さん」

 苦笑した気配と降ってくる優しい声。
 久々にヒトの温もりをすぐ近くに感じながら、私は眠りに落ちていった。

 

 

 

 秋も終わり冬が来て、気が付けばもう十二月になろうとしている。
 その日はとても寒い日だった。雪が降ってもおかしくないような寒さ。
 そんな日に、ふと嫌な予感を感じた。
 家の鍵を閉め忘れたかも、というような日常的で生温いものじゃない。
 大事な人がいなくなるような感覚。虫の知らせみたいな、すごく嫌な感じのするもの。
 帰りたくないと、出来ることならこのまま逃げてしまいたいと、初めて強く思った。
 出会った当初でもこんなに強く思ったことはない。それくらい、嫌な予感がしていた。
 でも私の家はここで、目の前にあるドアを開けなくてはならない。

「た、ただいま……」
「おかえりなさい」

 玄関で出迎えてくれたリウ。帰ってくる声はいつもと同じで穏やか。浮かべている笑顔もいつもと同じ。
 ただ違うのは、身に纏った服装と雰囲気。

「…………出て行くの?」
「ええ。お世話になりました」

 リウが恭しく頭を下げる。黒のシックなスーツと相まって、何処かの執事のように見える。
 中身はそんな高尚なものじゃないと、知っていても。

「夕食は作っておきましたから、温めて食べてください。それくらいなら貴方にも出来るでしょう」

 にっこりと本当に変わらない笑顔でリウは話す。

「随分と長い時間お世話になってしまいましたね。ご迷惑をお掛けしました」
「……ううん、こちらこそ助かった」
「私も助かりました。逃亡の準備もしっかりと抜かりなく出来ましたし」
「私も本当に助かった。私家事って苦手だから」

 ほら、嫌な予感は当たるんだ。嫌な予感に限って、当たるんだ。
 ……どうして悲しい? 怖い殺し屋さんがいなくなる。いいことじゃないか。

「いえいえ、利用していたのはこちらも同じですから。家事は嫌いじゃありませんし」

 ――利用。
 そう、彼は私を隠れ蓑していた。私も彼を匿う代わりに家事をやってもらった。
 持ちつ持たれつ、利用し合っていた。

「貴方は私のことを通報しない。信用できます」

 これだけ長く一緒にいれば情も移る。女とは基本的に情にほだされやすい。そういう意味では彼の選択は正解だった。

「御坂さん、ありがとうございました。貴方との生活、悪くはなかったですよ」

 その言い方は、ずるい。
 悪くはない、でも良くもなかった。そんな裏読みをしてしまう自分の卑屈さが嫌だ。でも、誰だって同じことを考えるだろう。
 だからこそ、引き止められない。

「……貴方のことは警察には言わないし、誰にも言わない」
「そうしてください。賢明な判断です」

 にっこりと友好的に笑う。でも、口外したら殺すと目が物語っていた。
 ――この人は殺人犯、殺し屋だ。どんなに優しそうに見えたって、本質は全然違う。
 何処までも何処までも、非情になれる。

「それでは御坂さん、お邪魔しました」

 もう一度丁寧に頭を下げて、リウは私の脇をすり抜ける。私に脇目なんてふらず、迷わず真っ直ぐにドアを開ける音がした。
 私は振り返れなかった。見送ることはしたくない。振り返ったら、自分でも何を言い出すか分からない。

「…………私も」

 でも、口が勝手に動いていた。リウが動きを止める。

「私も、貴方との生活、悪くなかった」
「…………光栄です」

 静かな声でそう答え、リウはドアから外へ出て。

「さようなら」

 冷たい声で別れを言い残し、ドアが閉じられる。
 カツカツと足音が遠ざかって、やがて消えていった。

「…………っ」

 膝から力が抜ける。立っていられない。捻子が切れたようにその場に崩れ落ちた。

「……っ、はっ」

 これで私の普通の日常が戻ってきた。彼が来る前の、夏の前の生活に戻るだけ。
 それが私にとって普通の日常。大学に行って、バイトに行って、家に帰ってきて簡単にご飯を食べて、寝る。ずっと繰り返される平穏だ。
 よかったじゃないか。これで怖い思いをしないで済む。口うるさく小言を言ってきた殺し屋がいなくなった。好き勝手出来るじゃないか。
 警察にびくびくすることもないし、彼を誰かに見られやしないかと心配する必要もない。
 また一人で、自分のことは自分でやる当たり前の生活をするだけじゃないか。

「……っく、ひ…………っ」

 いい事尽くめじゃないか。また気楽な一人暮らしに戻れたんだから。当たり前の日常に戻っただけじゃないか。
 ――どうして、泣く必要がある?

「ひ……っく、リ……ウぅ…………っ」

 家に帰ると出迎えてくれる人がいる。温かい食事を用意して、待っていてくれる人がいる。

「リウ……リウ…………」

 色々なことを話しながら食べる食事。他愛ない話でも、きちんと聞いてくれる人がいる。

「リウ、リウ、リ……っウ」

 ちょっと元気が無いだけでも心配してくれる。ちょっとした気遣いで、とても嬉しくさせてくれる人がいる。

「いや、だ…………」

 何かあったらすぐに相談できること。とても心強くて、とても頼りになる人がいる。

「私、…………なんだ、から…………っ」

 大好きな人が温かく迎えてくれる。それだけで、普通の日々が幸せで満ち溢れているように感じられた。

「私……貴方が、…………っ」

 好き。

「私、私はぁっ!!」

 そうだ、私、好きだったんだ。
 あの奇妙な縁から始まった生活。最初はなんとも恐々と一緒にいたけど、次第に慣れていった。
 慣れたら慣れたで、彼は様々な顔を見せてくれるようになった。
 皮肉を言いながらも、私が本気で気にしていることは絶対に言わなかった。
 にこにこ笑っている時ほど信用ならなくて、だけどそれは同時に楽しそうでもあった。
 いちいち皮肉っていたけど、なんだかんだで私を心配してくれた。
 たまに見せてくれる優しい眼差しが、実は心優しい人なんだって教えてくれた。
 いつだって私が心配しないように、必ず帰ってくるよと言うように、愛用のナイフを置いて外出してくれた。
 私が怖がらないようにって、絶対に怒らないで、殺気を出さないで、睨んだりもしないで、仕事をしてきたことをも隠してくれた。
 思い出せば、彼はいつも私に気を遣ってくれていた。優しく、柔らかく、怖がらないように、傷つけないように、穏やかな雰囲気を崩さないでいてくれた。
 リウは確かに殺人犯かもしれない。殺し屋かもしれない。非現実的な人だった。
 でも、私に対する姿勢や心遣いは嘘じゃなかった。例え利用するためだとしても、それだけは確かなことだった。
 面倒なら殺してしまえばいいのに、殺さないで私のために自分が苦労することを選んだ。

「リウ、リウっ!」

 優しい人。とても、優しい人。
 どうして彼は殺し屋なんてしているんだろう? 優しい彼が傷付かないはずないのに。
 もしかしたら彼は殺し屋じゃないのかもしれない。本当は家を失くして放浪していた人で、あの殺人犯逃亡に乗じて私を脅してみただけなのかもしれない。
 もしかして、もしかしたら。
 かもしれない、そうだったのかもしれない。
 憶測ばかりが浮かんでは消えていく。
 もしかしたら戻ってくるかもしれない。忘れ物しちゃいましたって、またあの胡散臭い笑顔で戻ってくるかもしれない。
 …………そんなこと一番有り得ないって、分かっているけれど。

「どう、どうしてっ! 今になって自覚するのよぉ……!!」

 遅すぎる。遅すぎるではないか。一緒にいたあの頃に、どうして認めなかったんだろう。

 

 

 

 その夜、私は泣きながらリウの作った最後の夕食を食べた。
 涙の味が強かったけど、とても美味しかった。
 一人で食べて、一人で後片付けをした。随分とやっていなかったから、ちょっと手間取った。
 食器も鍋も、全部洗って片付けた。これでリウの手料理はもう食べられないと気付いて、泣いた。
 寝ようとしてテーブルをどかしている自分がいた。馬鹿馬鹿しくて、苦笑する。
 リウの使っていた毛布は部屋の隅に畳んであった。抱き締めてみたら洗濯用洗剤のいい匂いしかしなかった。
 リウは真面目で律儀過ぎると笑った。でもすぐに彼の匂いを思い出して、泣いた。
 その晩、リウの使っていた毛布に包まってリウみたいに床で寝てみた。カーペットが敷いてあるとはいえ、体が痛かった。
 こんな状態で彼は眠っていたのだと悲しくなった。ケチらず布団を買ってくるべきだったと後悔した。
 たった一回だけ、一緒にベッドで眠ったことを思い出した。次の日の朝、それを忘れて混乱して、 変態とか言いながらリウを蹴ってしまったんだっけ。
 その日一日、彼はずっとぐちぐちと皮肉を言ってくれたな。私が悪かったから甘んじて受け止めたけど。
 スイカが好きだと笑ったリウ。
 ホワイトシチューが会心の出来だと満足気に言ったリウ。
 女らしくしなさいと説教しつつ心配してくれたリウ。
 なんだかんだと文句を言いながらも一緒に寝てくれたリウ。
 毛布に包まったまま、リウとの生活を思い出して泣いた。一晩中、泣き続けた。

 

 

 

 時間は何事もなかったかのごとく流れていく。リウがいなくなってからも淡々と流れ続けた。
 出て行ったのは十一月。今は十二月の終わり。クリスマスイヴ。
 バイトからの帰り、ケーキ屋さんに寄って予約していたケーキを受け取った。
 リウは甘いものが好きだった。だから一緒に食べようとこっそり予約していた。
 ……今思えばなんてお馬鹿だったんだ、当時の自分。
 いついなくなるかも分からない相手のためにケーキを予約するなんて、正気じゃない。
 でも信じていたんだ、クリスマスまでは一緒にいてくれるって。これから本格的に寒くなる、十一月でいなくなるなんて、本気で思っていなかった。

「出て行くなら、もっと早くに出て行けばよかったのに」

 独り言は雑踏に紛れて消える。私は待ち合わせ場所に急いだ。
 今日はクリスマスイヴ、独り身の親友と私の部屋で二人パーティーをする予定だ。

「燐!」
「志摩! 久し振り」

 大学でつるんでいるから久し振りというほど会っていない訳じゃない。
 ただリウがいたからプライベートで会うのは久し振りだった。

「お誘いアリガトウ。それ、ケーキ?」
「うん。美味しそうだったから予約しちゃってさ……志摩が空いてて良かった」
「なにそれ、私に彼氏がいなくてよかったって?」
「違う違う」

 いつものじゃれあう会話。アパートに向かいながらも雑談は続く。

「そういえば一時期、燐ったら全然部屋に呼んでくれなかったよね」
「あー、うん。あの頃は忙しかったから」

 リウのいた時期をさしているのは間違いない。適当に誤魔化す。

「まぁね。でもそれにしてはご無沙汰だったじゃない? だから彼氏でも出来たのかと疑ったわ」
「はは、そんなの出来るわけないよ。志摩ほど美人でもないし」

 志摩は派手系の美人だ。前に赤スーツを着ているのを見たとき、お水系が似合うと口を滑らせ殴られた。

「燐は美人じゃないけどカワイイよ?」
「……カワイイはあんまり褒め言葉じゃない、かな」

 背が小さい上に平凡な顔立ちだ。カワイイは身長のことをさしていると思うと泣きたくなる。

「おっと、通り過ぎるところだった。危ない危ない」
「危ない危ない」

 気が付けばアパートの前。私は数ヶ月ぶりに志摩を部屋に入れた。

「お邪魔しまーす」
「お邪魔されまーす」
「それ失礼!」

 くすくす笑いながら中に入った志摩が目を丸くする。

「あれ、燐ってこんなに綺麗好きだったっけ?」

 部屋の中は綺麗に片付いている。毎日掃除は無理でも、整理整頓はしっかりとやっていた。

「あの面倒くさがりの君が、前に来たときは下着もそこらへんに散乱してて女としてどうよ、と突っ込んだ君の部屋が」
「うるさいなー! ケーキいらないんだね?」
「いるいる! ごめん!! 驚いたんだよ」

 志摩は笑いながら座る。私もケーキをテーブルにおいて包丁を取りに行った。

「志摩、何か飲む?」
「あ、ビールビール!」
「アルコールかよ……」

 私はあまりアルコールが好きじゃない。強くないのだ。
 志摩にビール、自分にはコーラを持って戻ると志摩がケーキを出していた。

「これって人気洋菓子店の限定クリスマスケーキじゃん!」
「だから言ったでしょ、美味しそうだったから予約しちゃったんだって」
「でも電話でも店頭でも予約するのは至難の技って……」
「運が良かったの」

 そう、運が良かった。店頭予約、最後の一人。
 リウのために頑張って朝から並んだ。寒かったけど、リウの喜ぶ顔が見たくて頑張った。
 きっとリウが見たら照れたように笑っていたに違いない。そんな顔を見せてくれるまで、私達は近くなっていた。

「……燐?」
「! ご、ごめん!!」

 うっかりトリップしてしまった。

「どうかした? 最近、元気なかったよね」
「そんなことないよ。疲れていただけ」

 すぐに戻れると思った一人の暮らし。だけど思いの他、リウとの生活は心地よすぎた。
 引きずっている。自覚はあった。それによって志摩に心配をかけていることも。

「大丈夫なの?」
「平気! さ、食べよう!」

 ケーキを切り分け、お皿に載せる。それを志摩に手渡す。

「……あんたって本当に不器用ね」
「うるさい」

 あんなに綺麗だったケーキも私の不器用な切り方で不恰好になっていた。
 これがリウだったら見事なまでに綺麗に切り分けたに違いない。
 貴方じゃないんですからこれくくらい出来ますよ、と皮肉りながら。

「…………」
「……燐、本当にどうしたの?」

 志摩が心配の目で私を見ていた。私は嫌になるくらい鈍感なのに、周りに居る人は皆気遣い上手で敏感だ。

「志摩……」
「………………」

 志摩は何も言わないで私を抱き締めた。何も聞いてこなかった。
 ほら、優しい。優しすぎるんだ、志摩もリウも。
 だから、涙が溢れてしまうんだ。
 嗚咽が漏れる。志摩は何も言わないで私の背中をさする。
 折角のクリスマスなのに、私は泣いた。リウが出て行った日のように、声をあげて大泣きした。
 志摩も無言で私を抱き締めていて、時々背中をさすってくれた。
 ようやく泣きやんだ頃には日付変更間近で、志摩は笑いながら私の分のビールを持ってきてくれた。
 酔いつぶれるまで飲もう。嫌になるまで食べよう。
 志摩は優しく言って、ケーキを食べた。私もビールを飲みながら食べた。
 ケーキはとても甘かった。甘くて、それと同じくらい苦い味がした。

 

 

 

 一月は帰省して、久々に両親に会ってきた。成人式だったから随分と会ってなかった友達とも会った。
 帰ってきたらすぐに大学が始まって、レポートと試験に追われた。気がつけばもう一月も終盤で。

「…………」

 日曜日。バイトも休み。丸一日休日だ。
 私は部屋でごろごろしながらリウの毛布に包まっていた。なんだかこうして過ごすのが癖になっていた。
 時間の無駄遣いをしているといつしか夜になっていた。外は真っ暗だ。

「カーテン、引かなきゃ」

 思うも体は動かない。面倒くさい。

「うー」

 ごろごろと転がる。ガンッと頭を打ちつけて涙目になった。
 私はなんて馬鹿なんだ。自分に呆れているとあの無線機が鳴った。
 また防災無線から市の連絡だ。

『市役所より、東警察署から連絡します……』

 東……ここは西の管轄だから関係ないだろう。
 毛布から出てカーテンを閉める。防災無線の声は耳をするすると通り抜けてくる。でも。

『犯人はナイフを所持、特徴は黒いスーツ、痩せ型の男……』
「!!」

 まさか、まさか!
 考えるよりも先に体が動いていた。部屋着のまま、コートを羽織ってアパートを飛び出す。

『東地区での事件ですが、西地区の住民も念のため外出せず……』

 外部スピーカーからも同じ放送が流れていた。暗い空に反響して、エコーがかかっている。
 危険なのは承知の上、警告なんてクソ食らえ!
 私は東地区へと全速力で走った。そんな私を馬鹿にするみたいに、放送のエコーが追ってきた。

 

 


 先に言っておきたいことがある。私は運動が苦手だ。苦手な上に嫌いだ。
 大学に入ってなにより嬉しかったのは体育がないことだったりする。
 そんな私が大学に入ってから運動をしていたか。答えは否、だ。

「自転車、乗って……くるんだった……っ!」

 全速力で持久走なんて一回もしたことがない。持久走はいつも適度なスピードでのんびりと走っていた。
 きっと明日は筋肉痛だ。明日の夜は眠れないだろう。

「はぁ、はぁ……くそっ」

 なんとか辿りついた東地区。来たはいいが来たからといって犯人と会えるわけでも、ましてや会いたい人に会える確率なんてゼロに近い。
 なんて無計画なんだ。なんて私は馬鹿なんだ。
 人気のない住宅地を歩きながら自己嫌悪に陥る。

「もう少し、計画性を持った方がいいかも……」

 自分の無計画さは知っていた。考えるよりも行動派なんだ、私は。

「……寒い」

 当たり前、コートの下は部屋着。防寒仕様じゃない。
 真冬の夜、殺人犯が逃げこんだ地区を彷徨う怪しい女。私の方が不審人物だ。
 私はなんて馬鹿なんだろう。家に居座っていた殺し屋を探しているなんて。
 正気の沙汰じゃない。私は馬鹿で阿呆で間抜けだ。

「……それでも会いたい」

 あの人に会いたい。会って、会って?

「! やっぱり、私は大馬鹿だ」

 会って何を言うというのだ。また一緒に暮らそう? どうして、と怪訝そうな顔をされるに違いない。
 ……いや小馬鹿にした態度で、貴方は相変わらず馬鹿ですね、と言うに違いない。

「あー、もうっ!」

 自分の馬鹿さ加減に嫌になってしゃがみ込む。泣きたいくらい、情けない。
 会いたい。でも会って何を話せばいいのか分からない。
 何を話せばいいか、思いつかないのにどうしても会いたくて。
 自分ではどうにも出来ない強い想いなんて、ただ苦しいだけだ。

「やだ、もう……」

 泣きたい。声をあげて子供みたいに泣きたい。
 泣いたら楽になれるかもしれない。楽になれないかもしれないけれど。
 ともあれ、ここは外で泣いてはいけない場所だということが分かるくらいには大人だ。

「泣くな泣くな、とりあえず泣くな」

 まずは立ち上がって家に帰ろう。ここにしゃがみこんでいても仕方ない。

「はぁ、コンビニであったかいものでも……」
「いたぞ! 奴だ!!」
「!」

 突然聞こえた叫び声。
 私の体は無意識のうちに動き始めていた。
 声がした方へ走る。疲れていたはずなのに、自分でも呆れるくらい全速力で。
 理由なんてない。ただ、会いたい。それだけのために。

 

 


「確か、声がしたのは、こっちの……」

 途切れ途切れに呟きつつ辺りを見回す。と。

「いたぞー!」

 曲がり角の先から声がする。そして……。

「リウ!」
「!!」

 角を曲がってきたのは黒のロングコートに黒のスーツの男の人。リウだった。
 目を丸くして私を凝視すること数秒。いつもの笑顔に切り替わる。
 それから私の手を取って。

「走りますよ!」
「へ? え!?」
「待て! 奴を捕まえろ!!」

 追いかけてくるのは警察なんかじゃなくて、もっとやばそうな……。

「待てー!」
「そう言われて待つのは貴方達くらいですよ」

 ぼそっと皮肉を言うのが聞こえる。
 こんな時でもリウはリウのままで、思わず笑ってしまう。

「笑っている暇があったら足を動かしてください」

 ……注意されてしまった。それさえも嬉しい私は究極の阿呆だ。
 リウに手を引かれるまま走る。住宅街の道から大通りに出たり、大通りから細い路地裏に入ったり。
 何処を走っているのか全く分からなくなる。それは追っ手も同じようで、いつの間にかまいていた。
 追っ手をまいたことを確認して、リウは暗い路地で足を止める。
 止まったことで急に疲れを自覚した。

「もう、走れない……」

 壁に背中を預けずるずると座り込む。対してリウは少し呼吸が早くなっているだけだ。
 悔しい。悔しいがその涼しげな顔が懐かしくて。

「なんです? 私の顔に何か付いてますか?」
「………………目と鼻と口とその他諸々」
「貴方の頭は幼児並ですね」

 聞き覚えのあるやりとりだが、リウの返答はかなり辛酸を極めている。

「本当に馬鹿です。どうしてあんなところに? 貴方の家は西地区でしょう」

 もっともな質問だ。

「それとも道に迷ったんですか? 貴方の軽い頭なら有り得ないことではありませんね」

 …………このヤロウ。

「それに真冬の遅い時間にこんな格好で……風邪を引きたいんですか?それとも自分をいじめるのがご趣味で?」

 よくそんなに嫌味が言えるものだ。普段の私なら大声で言い返していただろうけど、今の疲れきった状態では何も言えなかった。

「…………貴方の馬鹿さ加減にはうんざりしますよ」

 呆れた声と一緒にコートが降ってくる。

「羽織っていてください。幾分かマシでしょう」

 コートを私に羽織らせて前を合わせる。ぎゅうっと。そう、ぎゅうぅぅぅぅっと。

「く、苦しい……マジ絞まってますから、マジで……!」
「このまま三途の川まで行ってみますか? 馬鹿が直るかもしれない」

 ぱっと手を離すリウ。顔は笑っている。顔だけは、笑っている。
 ……目が笑ってない。

「…………リウ、怒ってる?」
「怒ってますよ、凄く」

 どうして、とは聞けなかった。
 何故って、貴方にはもう会いたくなかったからですよ。
 きっとリウはそう答える。なんとなく、予想できた。本心なのか、それとも嘘なのかまでは分からないけど。

「それは置いておいて、どうしてこんなところへ?」
「また警察から緊急放送があって、リウの特徴そのままだったから」
「私を助けようと?」
「…………うん」

 助けようとしたわけじゃない、会いたかっただけだ。でも正直に言うことは出来なかった。

「…………貴方は本当に本当の、真のお馬鹿なんですね」

 心底呆れた声で言われて、流石にむっときた。

「そこまで言う必要はないんじゃない!?」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪いんですか? 言ったでしょう、何事も最後まで聞いて判断しなさいと」
「…………どういうこと?」

 はてなが乱発する私に、リウは頭に手を当てた。

「頭痛がしてきました……」
「だからなんなのよ?!」
「おや、丁度いいところに。あれを見てください」

 リウが指差したのはこの路地の向こうで、警察らしき人が黒い服の男の人を連行していた。

「先ほどの放送は変質者のことですよ。ナイフを持って女性を脅したらしく、警戒態勢をとったようですね」
「………………」

 そういえば、放送を最後まできちんと聞いてなかったかも。

「やはり馬鹿ですね」
「ぐうの音もでません……」

 あれ、でもリウは追いかけられていたような……。

「でもリウ追われてなかった?」
「警察も確かに人相が悪いですが、あそこまで全員が全員悪人顔はしていないと思いますよ」
「…………じゃあ誰?」
「今回のクライアントです。土壇場になって報酬を下げたので、交渉決裂したところです」

 どう見ても小指をなくしそうな職種だった。さすが裏の仕事人、なんでもありだ。

「さて、犯人も捕まったので送っていかなくても大丈夫でしょう。きちんと寄り道せず帰るんですよ」
「あ……」

 リウが身を翻す。私は咄嗟にスーツの裾を掴んだ。
 何かまだあるのかとリウが振り返る。その目が思いのほか冷たくて、何も言えなくなる。

「…………」

 一緒に帰ろう。
 それは私のエゴだ。リウの帰る場所は私の所というわけじゃない。

「…………待ってるから」

 口をついて出たのは待つという言葉。コートのこともある、取りに来るのを待っている。
 それが唯一、私が口にすることの許された言葉だと思った。
 リウの返事はなくて、私の手を振り払うとそのまま歩き出す。真っ黒な後姿は、すぐに消えて見えなくなった。
 私はしばらくその背中を見送ってから、コートを握り締めて帰路に着いた。

 

 

 

 二月になって、試験と補講が終わり春休みになった。だけど色々まだまだやることがあって、ほぼ毎日大学に通っている。
 既に日が暮れて真っ暗になってしまった道を自転車で走る。
 あれからリウと会うこともない。尋ねてきてもくれない。
 コートはクリーニングに出してしまってある。早く取りに来てくれないと邪魔でしょうがない。
 ギギ、とタイヤから不穏な音がする。リウをはねてからライトは直したんだけど、代わりにタイヤというかブレーキの調子が悪い。

「また自転車屋さんに行くようかなぁ……」

 それはなかなか面倒だ。お金もないというのに!
 やっぱりリウがいる方がいい。リウは主婦並にやりくり上手だったから。

「コートとりにきたら絶対に帰してやらないんだから」

 口では強がって、だけど内心はびくびくしている。
 リウがウチに来ない確率の方が遥かに高い。高いなんてもんじゃない、ほぼ百パーセントだ。
 何処にいるかも分からない。連絡もとりようがない。
 やっと浮上したのにまた落ち込んでしまう。いけないいけない、これじゃまた人をはねちゃ――
 ドン! ズシャッ!
 ………………やっちまった!!
 衝撃が体を襲い、ブレーキを握り締めた手が痛む。
 慌てて振り返ると、黒いスーツの男の人が倒れている。

「!」

 デジャヴがするけど、そこまで私の人生はドラマチックに出来ていないはず。

「大丈夫ですか!?」

 自転車を降りて倒れている人に近寄る。その人はぴくりとも動いてくれない。
 顔は地面に伏せられていて、うつ伏せ状態のまま動かない。
 回れ右をして消えたい気持ちが湧き上がる。だからそれじゃ私が轢き逃げ犯になっちゃうんだって。

「! 救急車!! 救急車を呼ばないと!」

 ともあれ携帯で119を押そうとしたら、不意に腕を掴まれた。
 本気で血の気が引く。冗談抜きに飛び上がった。

「大丈夫ですから、救急車を呼ぶ必要はありません」

 聞き覚えのある、低い声。

「落ち着いてください」

 携帯から顔を上げられない。手が勝手に震え始める。

「死ぬような怪我はしてませんよ。だから落ち着いてください」

 からかい混じりの声。手に力が入らなくて、地面で携帯がはねる。

「携帯は精密機械だから、落としたら壊れますよ。それより、貴方に怪我はありませんか?」

 顔を覗き込まれる。額から血が出ていた。でも大した量じゃない。
 ぼやける視界でも分かる端正な顔立ち。胡散臭い、でも優しい笑顔。
 私は笑って見せた。

「私は、大丈夫……それよりも、血が出てますよ。救急車を呼ばないと」
「大丈夫ですよ。自分でなんとか出来ますから」

 冷たい指が頬に伝う涙を拭ってくれる。男の人は優しく笑っていた。

「なら、手当てさせてください。私が轢いたんだから」
「正確にははねられたんですけどね。だからそんな使命感はいりませんよ」
「いえ、ウチ近いんです。だから、ウチまで来てください」

 彼の手を掴んで、ぎゅっと握る。彼も私の手を振り払おうとしなかった。

「ここから徒歩一分です。追われているなら、匿ってあげる」
「飼ってくださるんですか?」
「……仕方ないから、飼ってあげる」
「それは光栄です」

 彼がにっこりと笑う。だから私もにっこりと笑い返した。

「おかえり、リウ」
「ただいま帰りました、御坂さん」