蝶一匹ひらりひらり
蝶二匹ひらりひらり
きらきら光を漂って
ゆらゆら怪しく舞い踊る
紅い蝶ひらりひらり
黒い蝶ひらりひらり
てらてら血濡れて踊る蝶
はらはら涙を流す蝶
ひらりひらり ひらりひらり……
人喰蝶*死哀蝶
ひらひらと目の前を飛んでいく蝶。どこにでもいる、紋白蝶。
最近はあんまり見なくなったと思っていたけど、元気にどこかで暮らしていたらしい。
「久しぶり。君は何代目かな?」
手を伸ばせば指先にとまった。大きな目をきょろきょろさせている。
「そっか、君はカノハさんの娘さんかぁ」
蝶は何も答えない。それでも、私には『声』が聞こえる。
「カノハさんも頑張ってたもんね。君も頑張って子孫を残すんだよ」
そう伝えると、蝶はまたひらひらと飛んでいってしまった。
「今年も皆頑張るんだって」
後ろにある気配に話しかければ、溜息交じりの返答。
「当たり前だ。あちらは自然界で生きる短命種なんだからな」
「それはそうだけどさ、いいなと思って」
後ろの気配は何も言わず、私の隣まで来てあの紋白蝶を見た。
「もう、そんな季節なんだな……」
「うん。もう、始まりとお別れの季節なんだよ」
ひらりひらりと沢山の蝶が舞う。
色とりどりの花の中を、華麗に優雅に舞い続ける。
「お前も、そろそろか?」
「…………うん、そうだね。そろそろ、かな」
最近飢えが酷くなった。時折、我慢出来なくなりそうになる。
「分かった。調達してこよう」
「………………終、ごめんね」
「……貴方の為なれば」
もう、こんな生活は嫌なのに。
「帰ろうか、今日は学校でどんなことがあったの?」
「今日は特に何も。ただ、斉藤が」
「斉藤さんがどうしたの。また失敗でも?」
穏やかな夕暮れ。私と終の長い影が繋がって、手を繋いでいるみたいだった。
蝶がどこかへ帰っていく。誰も知らない、蝶の寝床へ。
「蝶葉」
「う、またトマトジュース?」
「仕方ないだろう? 嫌なら飲むな」
「飲む飲む飲みます!!」
大きな敷地の小さな庵。そこが私達の住処。
「うー、トマトジュースは好きだけど薬が混ざってると不味いんだよね」
「なら水に溶かすか?」
「トマトで我慢します」
鉄臭い匂いのするトマトジュースを飲む。トマトと鉄臭い味が口いっぱいに広がる。
「まーずーいー」
「当たり前だ。鉄分を純粋に凝縮しただけのものだからな」
「最近流行りのサプリメントみたいなのはないの?」
「あれは純度が低く不純物も多い」
「…………」
「我慢なさいませ、蝶葉様」
「はぁーい」
終は口直しの緑茶を差し出しつつ、自分の薬を手に取る。
「まだ飲んでるの?」
「ああ」
「貴方はもう飲まなくても大丈夫なのに」
「……気にするな」
知ってるよ、終は私を気遣って不必要な薬を飲んでるんだって。
「あ、そうそう! 明日は浜ちゃん来るって」
「浜崎先生が? 分かった、学校が終わったらすぐに帰る」
「うん、お願いね」
私は彼をこの呪われた運命から解放してあげたい。そのためには私の存在は邪魔でしかないのに。
それでも、私は生きたい。彼と一緒に、この世界を見てみたいと願うんだ……。
「葛花さん、また進行してますね」
「やっぱり。そんな気がしてた」
次の日の午前中。浜崎勧先生、浜ちゃんがウチにやってきた。いつもの定期健診のために。
終は学校に行っていて不在。だから浜ちゃんはこのまま午後までいてくれるんだろう。
「やはり本能には抗えませんね」
「そんなことないよ。最近はまだマシな方」
昔の私だったら既に発狂していた。それから比べればなんてことない。
肌蹴ていた着物を着なおしながら、ふと思い立って聞いてみる。
「浜ちゃん」
「どうしました、そんな哀しい顔をして」
「私、終を解放してあげたいの。でもそれは出来ない。私は彼を手放せない」
「…………それで?」
「なら私はいなくなってしまった方がいいのかなって。死んで土に還った方が彼にとってシアワセかも、なんて」
「……まあ、それも幸せの形でしょうが、あの子は認めないでしょうね」
「だよね」
「きっと血眼になって貴方を探し、見つからなかったら廃人の様になって自殺するのがオチです」
「……随分な言い草だけど、否定出来ない」
「でしょう。そんな人ですよ、彼は」
目の前の人間は普通の人じゃない。私や終のような、異形を診てくれるお医者さん兼研究者だ。
そんな人が断言するんだから確実だろう。実は私もそう思う。
「葛花さん、そろそろ新しい着物を届けましょうか?」
私の服を見て、浜ちゃんは提案した。今着ている普段着の浴衣も確かにもう古くなったしね……。
「またいつもの色で?」
「うん。血のように真っ紅で目の醒める様な朱……」
それが私の戒め。人に仇なす存在である私の、私なりのけじめ。
「分かりました。貴方にその色は確かにお似合いだ」
「そう?」
「ええ、本当に似合っていますよ」
血の色が。
音無く告げられた言葉に、私は苦く笑った。
「浜ちゃん、終の方はどう?」
「大丈夫、むしろ快方に向かってますよ」
「よかった!」
「…………」
浜ちゃんの言葉に喜んだのは私だけで、終は何も言わずにシャツを羽織った。
終は私に負い目を感じてるんだろう。先に宿命から抜け出してしまったことに対して。
「浜崎先生、この後のご予定は?」
「特にないですが、貴方がたの報告がありますので失礼しますよ」
「え、一緒にご飯食べていってよ」
「それは魅力的なお誘いですが、今回は遠慮させていただきます。それでは」
そう言ってそそくさと浜ちゃんは帰ってしまった。つまんないの。
「蝶葉」
「今日はお魚食べたいな。大丈夫?」
「分かった」
終は何があったかな、と呟きながら台所へ。
その背中を見送って、私は自分の着物を見下ろした。それから少し考えて。
「終、終」
消えていった背中を追いかけた。
「なんだ?」
台所では終が早速魚をおろそうとしていた。こっちを見た終が首を傾げる。
「どうしたんだ、そんな顔をして」
「そんな顔?」
「子供みたいな顔」
言われて、私は今親とはぐれた子供のような顔をしていることに気付いた。
不安で不安で、どうしようもない、脅えた顔。
「……終」
「………………」
まっすぐに見つめる。終も重なった視線を外そうとしない。
「もし、終が望むなら」
「…………」
「もしも、終が望むなら、ここから出て行っても……」
「黙れ」
私が言い終える前に何かが床に落ちる音がして。
「黙れ、黙ってろ」
気がつけば終にぎゅうっと抱き締められて。
「黙れよ……っ」
震えた声で、そう言われた。
「終?」
「そんなこと、言うなよ。俺の全てはお前で、俺がここに居るのはお前が居るからだ」
「………………」
ごめん、とは言えない。そうしたら、私が彼をここに縛り付けてしまうから。
肯定も否定もしない。それが優しさだった。
何も答えず、終の背中に手を回した。大きくて広い、昔とは全然違う背中。
私は知っている。この大きな背中には数多の傷跡が残っていることを。
私の為に、負った傷跡。
「今夜、やる」
「…………分かった」
耳元で囁かれた短い言葉。それは私も終も汚れていく、穢れた儀式の合図。
終の腕に力がこもる。私も同じだけの力でその大きな体を抱き締め返した。
『浜崎、あの二人はどうだ?』
「大人しくしています」
真っ暗で何もない部屋に一人、浜崎は立っている。スピーカーから流れる声の質問に淡々を答え、手元のカルテをめくった。
「計良終の方に関しては問題ありません、あと数年もすれば人間と同等になれるでしょう。ですが、問題は」
浜崎は一旦言葉を切り、一瞬浮かんだ苦い感情を押し殺した。
「…………葛花蝶葉の進行が止まりません」
『そうか』
声はなんの感情も表すことなく、淡々と質問を続ける。
『葛花蝶葉の症状は?』
「背中の亀裂の進行、及び飢餓感の増幅です」
出来る限り感情のない声で答えているつもりだったが、己が思っているよりも浜崎の声は震えていた。
大きな恐怖とほんの少しの哀れみ。それが震えの正体だった。
「葛花蝶葉の人喰蝶としての本能はもう限界にきています」
人喰蝶。それはヒトの血を糧として生きる、異形のモノ。
例え本来の性格がどんなに穏やかだったとしてもその本能に逆らうことは出来ず、ヒトが干乾びるまで血を吸い続けるバケモノ。
浜崎の脳裏に明るく笑う蝶葉の姿が浮かんだ。どうして彼女が人喰蝶なのだろうと、心から疑問に思う。
だが、事実は事実でしかなく、彼女はヒトの敵。それは変えようのない真実。
「彼女も自分が自分でいることに限界を感じています。そろそろ、潮時でしょう」
人喰蝶が理性をなくし本能のみになった時、その姿はまさしく異形のモノにとなる。
そして見境無くヒトを襲い、誰彼構わず殺し続けるだろう。
『報告ご苦労、下がってよい』
「……はい。失礼致します」
浜崎は思う。どうして、世界はこんなにも理不尽なのかと。
何故、人間よりも人間らしい優しき少女が、ヒトの敵である異形のバケモノなのかと――
真っ赤な水。紅い紅い生命の源。
押さえきれない本能が私を襲う。息が乱れて、頭が白に侵食されていく。
「蝶葉、大丈夫か?」
「へい、き……」
不規則に波打つ心臓。背中の亀裂が痛い。
「もう少しだから、我慢してくれ」
終の無表情な、でも辛そうな顔を見て私は小さく頷いた。
終の方がきつい。
そう分かっていながら、私は……。
人喰蝶はヒトを襲う。喰う、そして殺す。
死哀蝶は人喰蝶を襲う。喰う、そして殺す。
どうして、私達はこんな運命を背負って生まれてしまったんだろう?
「蝶葉……」
終の腕の中には気を失った少女。少女の真っ白な腕に刺さった注射器。
その中にある、真っ赤な血。
「終、終……」
ごめんね、そんな辛いことをさせて。
「終、しゅ……う」
ごめんなさい、死哀蝶の貴方を人喰蝶である私の為に苦しめて。
終が注射器を少女から外した。きちんと止血して、離れたところにあるベンチに連れていった。
その間も私は一人、飢えと戦っていた。今本能に負ければ私はヒトを見境なく、食い尽くそうとするだろう。
「蝶葉」
駆け足で戻ってきた終が私の名を呼ぶ。
「これを」
差し出された血の入った細長い容器。私は震える指でそれを受け取ろうとした。でも。
「あ…………」
取り落としてしまった。草の上に音もなく着地した容器を、終は拾って蓋を開けた。
「蝶葉、こっちへ」
「……」
近付いた私を抱き寄せ、終は血を自分の口に含んだ。そして私に口付ける。
キスは愛情の確認のためにある。だけど、これはキスなんかじゃない。愛情なんて、これっぽちもない。無機質な口内のタベモノを移し与えるだけの行為。
ただの、食事。
ここは公園の草むらの中だから、他の人が見たら私達はいちゃつくカップルに見えることだろう。
…………本当に愛し合ったカップルだったら、どんなによかっただろう。
「終……ん」
きっと今、終は信じられないくらいの激痛に襲われているのだろう。血が薄れたとはいえ、死哀蝶はヒトを傷付ければ痛みを感じるはずだから。
死なないのが信じられないくらいの激痛だと聞く。そんな苦痛を、私は私のために終に強いている。
「終……ごめん、なさい……」
「……謝るな」
終はいつだってそう言う。だから駄目だと分かっていても、私は終を解放できない。
私は、終と一緒にこの世界で生きていたい。終と、一緒に――
「蝶葉……好きだ、愛している」
そんなのただの思い込み。インプリンティングだって、この人は気付いているはずなのに。
なのに、それを認めながらもその不条理な感情を否定しない。
「終、ごめん……ごめんね…………」
私は自分で貴方を解放できそうにない。貴方も、私に解放させてくれる気はない。
だからこそ、私は貴方の想いに答えられない。答えたら、戻れないから。
終から血を飲ませてもらいながら、今日は満月だと気付いた。
大きな満月はなんだかとても綺麗で、綺麗すぎて。とても、切なくなる。
気がつかない内に涙が頬を伝って、静かに地面に落ちていった。